長崎旅行
【爆心地と鯨料理】

長崎旅行【長崎原爆資料館】

『長崎原爆資料館』を出るとまるで夏のような日差しと暑さ。
目の前に、ちょうどいい具合に木々が生い茂った公園。
私はどういうわけか、自然が多い公園を見ると通りたくなってしまうんですよねぇ。
調度、日除けにもなるし。
っということで公園を通って駅まで行くことにしました。

道路下の日陰になっているところには、十数人ずつのグループになった学生さんたちが先生の話を聞いていました。
しばらく歩くと何かの塔が。
『中心地碑』です。


80年前、1945年8月9日。
長崎の上空に米軍のB29爆撃機が飛来原子爆弾を落とします。
そして、ここの上空約500mで原爆は炸裂しました。
その瞬間まで爆撃機が落としものによっていつもの風景が変わってしまうとは誰も思わなかったことでしょう。

ピカッ!ドン!
その直後、ここは3000℃から4000℃もの温度となり、秒速440mともいわれる爆風が吹き抜けたそうです。
その瞬間、見慣れた浦上天主堂は外壁を残すのみとなり、周りは瓦礫のみとなり、木々は倒れ焼きつくされ、建物や家は瓦礫と化しました。
(後に「原子野」をいわる荒野)

焼きだたれて亡くなっている人。
瀕死の状態で水を求めている人。
家族の名前を叫んでいる人。
ただたださまよっている人。
それはまるで地獄絵図そのものでした。

この碑には、こう書かれています。

昭和二十年八月九日午前十一時二分、一発の原子爆弾が、この地の上空五〇〇メートルで炸裂し、一瞬、七三、八〇〇人の尊い生命を奪い、七六七〇〇人の負傷者を出した。同時に、家屋の喪失一一,五〇〇戸、全壊又は大破したもの六八〇〇戸、この地を中心として、二五キロメートルに及ぶ地域が壊滅した。その惨状は筆舌に尽くし難い。
ここに原子爆弾投下の中心地を示すためこの碑を建てる。

昭和三十一年三月
長崎市長 田川 努

「100年は、草も生えないと言われていたけど、翌年には生えてきていたんだよ」っと母がよく言っていました。
母の言葉の通り、現在、「原子野」だったと想像がつかないぐらいに緑に囲まれ、周りには家々が建ち、天主堂は2つの鐘で時を伝えています。
長崎がここまでになったのは、当時の人々の逞しい生命力と復興へのご尽力だと感じました。

さて、4日目の夕飯は、待望の『くじら料理』!
予約したくじら料理『とんぼ』へGO!
通されたのは、2Fにある個室。
なかなかと雰囲気があって畳に椅子で長崎らしいお部屋。
(1Fは、カウンターで一人でも気軽に入れるお店のようです)
出迎えて下さったのは長崎県人らしくきさくな女将さんと頑張り屋のご高齢の女の方。❤️

さっそくメニューを広げてみるとさすがクジラ料理のお店。
いろんな部位の鯨料理が。
その中からまずは、鯨の盛り合わせで部位を味比べ。
それぞれ違う味でこれぞ鯨の醍醐味っ。
次に旦那の頼んだ『竜田あげ』。
私はくじらは大好きなのですが、竜田あげだけは苦手。
給食よく出ていたくじらの竜田揚げが、パサパサしていてそれ以来ダメになってしまいました。
しかぁ~しっ。
『とんぼ』の竜田あげはジューシーでおいしいぃ❤️
ちなみに女将さんも給食に出てくるものは苦手だそうです。

その他にもいろんなお料理をいただきました。

はじめての場所なので食べるのセーブしていたのですが、予算よりもはるかに安かったです。
多分、こっちだと倍ぐらいはするんじゃないかなぁ。
おいしすぎて食べるのに夢中で写真を撮るの忘れました😭

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