浦上天主堂を拝観した後は、調度お昼だったので姉おすすめの『宝来軒』へGO!
『宝来軒』は、『長崎原爆資料館』のすぐ目の前にあります。
けど、浦上天主堂からは暑い中結構あるいた感じが・・・
改めてGoogleマップで見てみると、徒歩11分。
あれ!?
自宅から最寄りの駅までの距離!?
そんなに遠くないんだけどなぁ。
『宝来軒』に着くと待合フロアー15分ほど待って席に。
私は迷わず細麺の皿うどんを、旦那はちゃんぽんを注文。
やはり長崎ではこの2つは外せません!!
お互いにシェアしながら、本場の味を堪能❤️🎶
甘めの味付けが長崎らしく、とても美味しかったです。
お腹が満腹になり、『長崎原爆資料館』へ。
今から80年前、1945年8月9日午前11時2分、アメリカ軍によって2回目の原子爆弾が長崎に投下されました。
長崎市に投下されたのは、プルトニウム型原子爆弾。
通称『ファットマン』。
広島に落とされた原子爆弾よりも威力は強かったのですが、長崎の地形はすり鉢状だったため広島よりも被害は限定的だったそうです。
ちなみに広島に落とされた原子爆弾の通称は『リトルボーイ』。
最初は福岡県小倉に落とされる予定でしたが、小倉は厚い雲に覆われたために投下することができませんでした。
そのため、次の目標となる長崎に向かいましたが、長崎も雲が厚かったそうです。
ただ、わずかな雲の切れ目ができ、目視で投下されました。
当時、長崎は三菱造船所など製鋼所、兵器製造工場などが集まる日本軍の重要都市だったらしいです。
下の写真は、『長崎原爆資料館』に展示されている『ファットマン』の模型です。
原爆が投下された時、それまで見慣れていた夏の長崎の風景は、瞬く間に地獄絵図へと変貌しました。
母から聞いた話だとその日、原爆投下前に1度空襲警報が発令されたそうです。
その警報時は何もなかったと。
その後、しばらくして「ピカッ」となったそうです。
『長崎原爆資料館』に入ると、まず目にするのが下の時計です。
針が指しているのは、原爆が投下された午前11時2分。
この時計は、その瞬間から時を刻むことをやめました。
今でも、時間が止まっているかのような感覚になります。
時が止まった時計を歩いて行くと浦上天主堂が再現されてます。
被爆した像も天使の像も展示されていました。
浦上天主堂は、爆心地から500mのところ。
東洋一の壮大さを誇っていた浦上天主堂は、外壁を残すのみとなり、そこに居た司祭様も信者の方達も一瞬にして天に召さたそうです。
下の写真は他のお客様が天主堂の前に立っている姿です。
(後ろ姿でシルエットなので掲載させていただきました。)
当時の人々もこんな感じで呆然と立ち尽くしていたのかもしれません。
浦上天主堂を過ぎるとファットマンの模型が展示され、長崎原爆投下までの経過が展示されていました。
それを過ぎると被爆した長崎の街がモニタ説明されていました。
もっと進むと、溶けた弁当箱、止まった時計、焼きだたれたコインなどが展示されています。
それらを見ると確かにそこに人々が居て生活していたんだと改めて感じさせられました。
写真は、残念ながら修学旅行?遠足?の子供達が学習していたので遠慮させて頂きました。
そして永井博士についての展示となります。
永井博士については、以前より知っており、彼の書いた本を数冊読んでいます。
『如己堂』にも行きたかったのですが、今回は時間が無く、泣く泣く諦めました。
(永井隆博士の写真2枚は、長崎原爆資料館に展示されていたものです。)
永井隆博士は、当時、長崎医科大学附属医院に勤務しており、放射線医学を研究していたそうです。
研究のために浴び続けたラジウムの放射線により原爆投下5カ月前に白血病の診断が下され余命3年と告知されていました。
原爆投下時は、長崎医科大学附属医院で講義の準備中だったそうです。
自身も被災し重傷を負う中で、真っ先に人々の救援活動をはじめます。
当時の様子は、著書『長崎の鐘』や『この子を残して』に記されています。
その後、救護活動を終え医師の立場から長崎への復興に尽力します。
また、崩壊した浦上天主堂の瓦礫の下からアンジェラスの鐘を発見したのも永井博士だそうです。
絶望の淵にあった信者たちのためにもう一度鐘を鳴らそうと、鐘を掘り出し、その年のクリスマスに鐘を響かせました。
その時に詠んだのが
『新しき朝の光のさしそむる 荒野に響け長崎の鐘』
これが『長崎の鐘』の由来だそうです。
白血病がだんだん深刻になり『如己堂』にて病魔と闘いながら執筆活動をしています。
寝たきりになっても書き続け、数多くの作品を残しています。
彼が最も心を痛めたのは、幼い2人の子どもたちを遺して逝くこと。
母親である奥様は爆死しています。
いずれ父親である自分も失う。
『この子を残して』にその悔しさが書かれています。
そして、1951年5月1日にわずか42歳の若さで亡くなりました。
何年か前のNHK朝ドラ「エール」で『如己堂』に住んでいた当時の永井博士をモデルとした人物が登場しています。
展示室を出ると「日中戦争と太平洋戦争」「原爆投下への道」「核兵器の時代」「現代の核兵器」「核兵器開発・実験の被害者達」と進みます。
今回、初めて知ったのは「マンハッタン計画」はアイシュタインがきっかけを作ったということです。
ナチス政権下のドイツが原子力エネルギーを獲得する方法を発見し、兵器に使われるのではないかという危険性を警告する手紙に署名しています。
その警告が1941年に原爆製造を具体化する「マンハッタン計画」をスタートされるきっかけとなったそうです。
ただし、アイシュタインは「マンハッタン計画」には一切関与していません。
それでもアイシュタインは、その警告が悲劇に繋がるとは予想しておらず深く後悔したと伝えられています。
長崎は、兵器として核が使われた最後の場所ですが、開発や実験は続きます。
「核兵器開発・実験の被害者達」のコーナーには、人型にくり抜かれたパネルが数点展示されています。
その足元には世界地図が置かれて場所を示しています。
以前から実験の被害者の中でも私がもっとも印象に残っているのは『第五福竜丸』。
1954年3月1日 アメリカによるビキニ環礁で行われていた水爆の実験。
調度、その時、操業中だった日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が放射性降下物「死の灰」を浴び、乗組員全員が被爆した事件です。
乗組員である久保山 愛吉さんは、最後に「原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい。」と残しています。
もちろん、展示されているパネルには「第五福竜丸」(「ビキニ環礁」となっていたかも…)もありました。
なお、「第五福竜丸」の展示は東京 夢の島にある「都立 第五福竜丸展示館 」にて見ることができるそうです。
長崎原爆資料館
おとな:200円
小中学生・高校生:100円
詳しくは、「長崎原爆資料館・長崎市平和会館」のサイトをご覧ください